AMURT
アムルトジャパンとは
アムルトジャパンの活動
ニュースレター/年次活動報告書
アムルトジャパンを支援する
ニュース
リンク
企業の皆様へ
お問合せ
 
e-kokoro
E-ボランティアネット
 


現地報告レポート

第1回(2007年1月12日〜1月19日)
第2回(2007年1月20日〜1月26日)
第3回(2007年1月27日〜2月2日)
第4回(2007年2月3日〜2月9日)
第5回(2007年2月10日〜2月18日)
第6回(2007年2月19日〜2月25日)
第7回(2007年2月26日〜3月7日)

第7回(2月26日〜3月7日)

2月26日(月)
今日は午前中に裁縫のクラスのインタビューをオフィスで行う予定だ。朝8時半頃から先週のクラスの人が集まり始める。ニシャンタよりもハリンディよりも早い。オフィスには私1人なのだが、あまりにも人が集まりすぎて圧倒される。しょうがないので、先週撮影したトレーニング時の写真をパソコンのスライドショーで見れるように設定し、オフィスの真ん中のテーブルの上に置く。皆さん興味津々。少しは時間が潰れるか?

9時過ぎにニシャンタが来て、アンケート用紙を配布。その場で記入してもらい、これを参考にしながら一人ずつ話を聞く。私が横に居ては話がしにくいかなと思い、少し離れて後ろで様子を伺うことにする。でも思ったよりも話をしてくれているようだ。ニシャンタが何か聞くと、それぞれにいろいろ話をしてくれている。ツナミと言う言葉も時々聞こえる。昔の話も聞いているのか。ある女性は、話している途中で少し涙ぐんでしまい、ハンカチで目頭を抑えていた。こういうのを見ると、津波の傷跡はまだ深いのだと思う。インタビューはもちろん全てシンハラ語なので、内容は全く分からなかった。ニシャンタがメモしたものを後でみせてもらうことにする。

結局、アンケート記入から全員のインタビューまで、4時間近くかかった。またしても立ち続けで見てしまった....。受益者も大勢が立って待っていたが。今回行っているのは、フィードバックアンケートである。一つの仕事を終えたときに、振り返って次へつなげるのはとても大切なこと。このアンケートとインタビューから我々が学ぶことはとても多いはず。私自身、言葉は分からないがここに立っていて感じる雰囲気だけでも得るものはある。受益者達は、トレーニングを終えたばかり。彼女らにとってはこれからが本当のスタート。今は立ち上がるきっかけを手にしたところ。ここから上へと導いていくこと=事後のフォローも上手く進めばいいなと思う。残念ながら私はもうそれには立ち会うことは出来ないと思うが。(ニシャンタは半年経ったら見に来いというが)

4時間立って話を聞きながら考えた。私に何か出来ることはないのか?コイアマットのように市場拡大などを目指す前に、やはり裁縫の技術そのものの向上ということになるんだろう。すると、やはり裁縫の本?素人の私には検討もつかない。日本に帰ったら私の母に聞いてみることにしよう。若い頃からずっと裁縫をしてきたんだし、初めはきっと同じような状態だったことだろう。体を壊してしまい、もう2度と裁縫をすることは出来ないが、きっと何かアドバイスくらいは出来ることだろう。

インタビューの途中、ある受益者がニシャンタにお菓子を一袋くれた。後で見せてもらったらFOR JAPANESE VOLUNTEER と書いてあった。手作りのお菓子だった。とてもうれしかった、ありがとう。

朝からオフィスに集まる。 場所が無くて、
外でアンケート記入。
インタビュー。 昔の話? 
途中涙ぐんでしまう。


2月27日(火)
久しぶりに静かな午前だ。ニシャンタとジャイシンガーが出かけたまま捕まらなくなっただけだが。私の帰国まで約1週間、いよいよ本気で職業訓練校のプロジェクトについて動かなくてはならない。いろいろ下調べをしなくてはならないのだが、どうしても言葉の壁が大きい。やはり現地語が出来ないと行動範囲が狭くなりもどかしい。結局ニシャンタ頼りになってしまう。同行してもらわないと非常に厳しい。

屋台の受益者が訪ねてきた。素材を使い切ったからまたくれと言っているらしい。何だかでたらめな要求らしく、使っては貰いに来ると言うのを繰り返しているらしい。ハリンディと口論になってしまった。いつまでもサポートを求めてきて、自立する気が無いとハリンディが怒っていた。良いことばかりではないと言う例。自立を助けるということはとても難しいことだ。もちろんどんなことでも100%の成功は有り得ない。きちんとカウントしたわけではないが、このような悪い例を見るのはまれなことで、アシスト成功率としては十分合格点が与えられるのではないだろうかと思っている。ただし、この悪い例からこそ、本当に学ばなければいけないとことが見つかるはず。きちんと分析しなくてはならない。それをきちんとやらないと成功率は上がっていかない。もちろん人間相手だから、簡単に失敗の分析が出来るわけではないが、問題を深く掘り下げて考えていく能力を身に付けることだけでも大事なこと。今でもよい仕事をしているが、さらに上を目指して欲しい。


2月28日(水)
朝のニュースで、沿岸にLTTEの船(全長70m)が現れたのを政府軍が発見、出動して攻撃、沈没させたとの報道。ラジオではゴールフォート付近との話だったので、ニシャンタ、ジャイシンガーと歩いて海まで見に行った。しかし何もなし。行きつけの売店で話を聞くとマータラ近辺とのこと。50kmは離れていることになる。とりあえず安心してオフィスに戻る。以前には、このオフィスの近辺に2人のLTTE兵士が泳ぎ着いたのが確認され、大騒ぎになったことが有るらしい。

昼にTVをつけるとトップニュースでやっていた。沈没させたことを示す絵が画面に出ているが、軍艦の絵が描いてある。何をするつもりだったのやら。これでまた警戒が厳しくなるんだろうか。この内戦もこの国が抱える大きな問題だ。

車でニシャンタを待っている時、子供がおもちゃの拳銃を持って他の子を追っかけているのを見た。私は子供達が楽しそうに遊んでいるなあとボケッと見ていた。しかし、ジャイシンガーがそれを見て、子供に銃のおもちゃなんか与えてはダメだと真剣に怒っていた。内戦が身近に感じられる国では、切実な問題なのだ。日本で生まれ日本で育った私は、やはり平和ボケなのかも。先週のクラストレーニングの最中に、1人の若者がお香の箱(インセンススティック)を売りに来た。軍にいたが戦闘で片足をなくして除隊、まともに働くことが出来なってしまったのでこうしてお香を売り歩いているのだという。戦闘でというのは、もちろん内戦のこと。値段は1箱30ルピー。1箱買うよと言って杖をついている左腕を触ったら金属で固定されていた。ニシャンタもジャイシンガーも買った。彼は授業終了後にもう1度来て受益者に声をかけていた。若い受益者が1箱買った。彼女の家庭は4人家族で月収は津波後4000ルピー。30ルピーは決して安くはないと思う。それでも買うのかと感心していたら、他にもたくさんの人が買っていた。決して生活必需品ではないし、お金に余裕が有るわけではない。それでも何のためらいもなく買う。それも国民性なのか。ご存知のとおり、この国は第2次大戦で日本の爆撃を受けている。そして戦後、賠償請求権を放棄した。仏教国だから? この国は、人間らしい人達がとても多いと思う。もしかしたら少し前の日本人ならこういう助け合いの気持ちもたくさん持っていたかな。今はどうなのか分からないけど。そういえばスリランカも島国だ。

ここ5日間ぐらい雨が続いている。大抵、夕方から夜に一時的にどっと降って止んでしまう。しかしニュースで、昨晩はゴールエリアの一部で雨ではなくてアイスが降ったと言っていたらしい。アイスとしか聞かなかったが、ひょうみたいなものだろうか。地上は夜でも20度以上はあるはずなのに、そんなこともあるのかと驚いた。オフィスはただの大雨+停電だけだった。最近毎日一度は停電する。


3月1日(木)
VTCのデータ集めなども動きつつ、先週のトレーニングのまとめを自分なりに作る。単に、やっとファイル出来たアプリケーションシートを自分なりにデータ整理しているだけ。ただし自分で表を作っていると、いろんなことが見えてくる。年齢は19歳から70歳まで幅広い。家族の人数は様々だが津波の被災者であるから、片親だけのところや一人暮らしの女性も多い。シートには津波前後での給料も記してある。この数字、平均値を出しても現状を分かっていただけないと思う。例を挙げると、7人の家族がいるのに給料が1000ルピーだけ。1000ルピー、時給でも日給でもない。月給だ。これで生活してきたのか。現在の給料に横線が引いてあるシートもあるのだが、稼ぎが無いと言うことか。非常にきびしい暮らしをしている人がまだまだ多い。およその目安として、津波前月収5000~10000ぐらいだったのが、2000~3000ルピー程度に落ちた感じだ。中に1人だけ、津波前の月収が50000ルピーと言う高給の人がいた。ご主人の前職が漁業だそうだ。それが津波で打撃を受け、月収6000に落ちた。漁業を営んでいた人達がこのように大打撃を受けているのだ。

海岸沿いを車で走ると、たくさんの小さな船を見ることが出来る。時には、海岸で数十人がかりで地引網を引いているのも見ることが出来る。こうして捕まえた魚は、フィッシュマーケットで売るだけでなく、海岸沿いの道路で小さな棚に並べて売っている。どこでも目にする光景だ。漁業はとても大事な産業なのだ。しかし、海に密接しているからこそ、津波のダメージをまともに受けたのだ。漁業が出来なくなって困っている人は多い。漁業は津波で大きなダメージを受けた産業なのだ。受益者ではないが漁業をしていた人で、内地の恒久住宅に移り住んだものの仕事は漁業しか出来ないので、バスで海まで出てくるなどと言う変な話も聞いたことがある。

以前、ハバラドゥワ地区を回っていたとき、海で魚を捕まえているのだが、少々違った商売を目撃した。熱帯魚を捕まえて売っているのだ。小さな小屋に酸素ボンベが設置してあり、たくさんの水槽やバケツに酸素が送られていた。そして小分けされた袋には色とりどりの魚たちが泳いでいた。本当に小さな設備だった。津波の前はもっと大きな設備で商売をしていたらしいが全て破壊されてしまい、2年経ってやっと少しずつ商売が出来るようになったという。アメリカや日本にも送っているそうだ。とはいえ、3~4畳の広さの小屋ぐらいでは、大した商売にはならないだろう。彼もたくさんの従業員(若者が海で魚を取っていた)を抱えており、商売を成り立たせるには資金(設備などへの初期投資)が必要だと話してくれた。

この地区を回ると他にも、ガイドやダイビングなど、様々な商売を眼にすることが出来る。ニシャンタは、これらを見ていて、これまではミシンや刺繍など、職業を絞ってアシスタンスを行ってきたが、このように様々な商売をする人達を効率よくアシストするにはマイクロクレジットが必要なのかな~と話してくれた。彼自身、とても難しいと考えているこの小規模金融であるが、このように各々が各自のもつ能力を活かして生計を立ちなおしていくにはよい方法なのかも。既存の職業を続けるのであるから、現職の人達と市場の取り合いなども無いわけだし。あとはいかにうまく管理出来るか。ニシャンタならやれそうな気もするが、何分忙しすぎるから....。やりたいことはたくさん出てくるんだけど、やはり人の数も資源のうち。我々が持っている限られた資源の中で、やれることだけを確実にやっていくしかない。でないと本当に総倒れになってしまう。理想だけではうまくいかない。

近海で魚を取る小さな船。 道路沿いの魚商。 魚の干物も需要は多い。。 熱帯魚の設備。


3月2日(金)
今日は、昨年のこの地区の津波被災者生活改善状況確認のミーティングが行われる。社会福祉関連の大臣主催で、この地区の主要な役人が一同にDSオフィスに集まる。会議は3時間が予定されていると言うからかなり長く、規模の大きい打ち合わせだ。そんな大事なミーティング、当日朝になって言うなよ~といいたいところだが、朝8時半からでニシャンタがオフィスに寄らずに直行するというので任せる。ニシャンタはたまに自分の中だけで仕事を組み立ててしまい、他人に言うのを忘れる。仕事がみんなに見えるようにしようよ~と言いつつ、私自身も自社ではそうやって自分で勝手に仕事していたよなと自分を見ているような思い。忙しくてギリギリの線でやっていてたまに遅れ気味ということを除けば、上手くやっているのでまあ.....。

ニシャンタが戻ってから、一緒にVTA(Vocational Training Authority)のオフィスへ。VTC関連の情報を集める為である。新たにここのチーフになったジャヤティッサ氏は非常に協力的な方で、私の話も真剣に聞いていろいろアドバイスもくれた。またデータ集めにも快く協力してくれた。ただし、やはりどうしても半分シンハラ語(ニシャンタ通訳)、半分英語の状態。絶対そうなると思い、事前に紙に聞きたいことを箇条書きにして準備していたので、3人でそれを見ながら話を進めた。おかげでそれなりに意志の疎通は上手く行ったと思う。やはり見ながら~と言うのは大事なことだと思う。直接会って何かに書いて確認しながら話をすると、かなりきちんと意志の疎通が出来る。でないと時々誤解が生じて2度手間になる。VTAへのお願いも紙で渡したし、これで少しはVTC業務の力になれるかな。残り少ない時間で私がここに居る付加価値を出さないといけないから。


3月3日(土)
ポヤデーで休み。近所は皆、休日の雰囲気だ。朝も少しだけ動きが遅い。ただし我々は先週のビジネストレーニング対応などで仕事が遅れており、皆出勤予定。ジャイシンガーも本当はポヤデーは休んで寺に行きたいんだけど仕事が有るならしょうがないと言う。ジャイシンガーは農家の出身で、父親はいつも朝4時には農作業に出かけていってたという。時々その手伝いもしていたそうだ。皆が起きて朝食を食べるころには、自分達は昼食だったんだよと笑う。彼は父親の教えで、今日の仕事が終わったら明日何やるかを考えてそれをすぐに始めるという。とにかく時間の有る限り、明日の仕事を片付けるんだと。明日の仕事まで片付いたら、あさっての仕事を考えて仕事を始める。休みたくなったら明日休めばいいと。でも明日はいつまでたっても明日で、明日は来ないんだよなあと笑う。起きなきゃいけないときは、朝4時でも5時でも起きてくれたし(逆に私を起こしてくれるし)、結構働き者だ。私は頼りになると思っている。休みの日の約束はものすごくルーズだけど。でも、彼は特殊な例で、こちらでは時間に遅れるのは当然のような雰囲気だ。トレーニングの時も、講師が昼休みが終わっても30分戻ってこなかったり。私は5分遅れた時点でもう心配で、講師が戻らないとあちこち電話したりしていた。しかし生徒はみんな慣れたもので特に気にしている様子でもなかった。私が騒ぎすぎ?この国に合わせないといけないのかな。きっと重要かどうか状況で判断するんだろうな。(授業は重要でない?)

ヒッカドゥワ地区テルワッタ、ペラリヤ。この辺りは津波の被害も大きかったところ。列車の事故が有ったところでもある。この地区はコイア製品作製の受益者が非常に多い。車で走っているとそこら中にコイア作製の装置や、作業をしている姿を見ることが出来る。皆我々の車を見ると手を振ってくれる。逆に、車が進めないなどで停まろうものなら皆寄ってきて話が始まってしまう。急ぐときは大変だよなあとジャイシンガーが笑う。

最初の写真は、車内から少し遠くを撮影したものであるが、皆こちらに気づいている。この辺りに来るとニシャンタは必ず、状況の確認も兼ねて過去の受益者の家を紹介してくれる。最初にミシンの受益者の家。彼女は若いがとても上手だったとのこと。いろいろ製品を見せてくれたが、大きなものも良く出来ていた。調子良さそうなので追加の支援も考えているようだ。3番目の写真は、ミシンの受益者が作ったバッグをニシャンタがチェックしているところ。なかなか出来は良かったのだが、デザインがシンプルだったのでその場でどうしたらもっと良くなるか皆で考えてアドバイス。一人で考えるよりもいろんな意見を取り入れたほうが良くなるだろう。次の家では、家の中にスパイスの小袋やお菓子などが壁にかけてあった。小さな商売を始めたとのこと。もともとはコイア製品作製の受益者なのだが、少しずつお金を貯め、この商売を始めたところらしい。まだほんの少しの商品だったが、大きな町まで出るのは少々時間がかかるこの地区では、喜ばれる商売かも知れない。何より、新たに自分の力で商売を始められたというのがすばらしい。この数軒の家、非常に近いので、お互いを刺激しあい、もっと良い方向に進めばいいなと思う。この地区に来ると、津波被災者の悲しみというのはもうあまり感じられない。もちろん内部には秘めているのだと思うが。それよりも皆立ち直り始めて、また少しずつ生計が復活し始めているのが感じられる。なんとなく穏やかな雰囲気が漂っているのだ。この地区は何度も訪れているが、素朴で何だか居心地の良いところだといつも思う。

コイアロープを作るグループ。 コイア繊維が積んである。 ミシンの受益者。
 
受益者の製品をチェック。 スパイスの小袋。商品。  


3月4日(日)
いきなり昨日の話であるが、夕方5時頃、やっと時間が出来たので寺に行こうという話になった。ゴールの町の対岸に見える日本の寺。小雨が降っていたが、ポヤデーだし思い切って行くことにした。ゴールの中心から10分程度のところに有るその寺は、日本山妙法寺と書いてあった。岬の先端の丘の上にあり、ゴールの町を遠くに眺めることが出来る非常に眺めの良いところだ。お堂でお経を上げているところに行ったら、僧侶の方から「日本の方ですか?」と声をかけられ、少々話をする時間をつくって頂けた。この方、もう8年ここにいるらしい。当然津波の時もここにいた。その時は建物を新築中で丁度作業をしているところだったと言う。朝、水が大きく引いて干上がった海岸に魚がたくさん打ち上げられ、子供達がそれを捕まえに行ってたのを見たと言う。その後、津波が来てしまったそうだ。その方はそれが津波だとは分からなかった為、何も出来なかったと悔やまれていた。水が引いたときに津波が来るとさえ分かっていれば、30分は時間が有ったのでお年寄りでも100mは逃げられたはずで、状況は変わっていただろうと。私がそこにいても、とっさに津波が来るとは思わなかっただろう。知識と連絡網さえあれば、人命だけは救えるのかも。このことが本当に世界中に伝わることを望みます。

最近津波被災地区を回っていると、津波が来た際の避難方向等を示す看板を見ることがある。ただしまだ十分とは思えない。観光客が多い地区などではこうした整備も重要であろう

ゴールのマーケット付近から
みた寺。(対岸の白い建物)
日本山妙法寺 黄色の看板。
UNSAFE WAYと書かれている。


3月5日(月)
 朝7時着の便でカントリーダイレクターのマヌが帰ってくる。私とほとんど入れ違いになる。しっかり会っておきたい為、日曜夜にコロンボへ移動。私も空港へ迎えに行くことにした。コロンボのオフィスアワーは朝8時半からとのことで、7時前にはもう渋滞が始まっている。我々は逆方向なので問題ないが、帰りが心配。片側2車線ずつの道路をラッシュアワー時だけ渋滞側3車線にして随所に警官を配置し、渋滞緩和に努力していた。空港近辺は警備も厳重で、空港への進入路ではパスポートのチェックが有った。ジャイシンガーはスリランカ人なのでフリー。私はパスポートを手にしたが、警官は見もしなかった。ただし後席のルナは、パスポートの内容を慎重にチェックされていた。インド人はスリランカではチェックが厳しい。もちろんLTTEを一部のインド人が支援しているからだと思う。

空港へ到着。到着ターミナルの出口通路付近へは、入場料130ルピーが必要だった。チケットを買ってセキュリティチェックを受け、中へ。と言っても、ほんの10mぐらい入れるだけだった。しかも中に入っても飛行機の到着状況は見れない。壊れたモニターが一つ有ったが本当はこれが動いているのか?全く状況が判らないまま、ただひたすら待つ。数時間遅れたりしてたらどうするんだろうと不安になる。国際空港なのに....。新しい建物でまだ一部工事中のようには見えたので今だけのことなのかな?誰も文句を言わないし。

30分程待っただけで、ほぼ予想通りの時刻にマヌは出てきた。帰国まであと3日のところでやっと会えた。お互い一言目は「やっと会えたね。」。オフィスへの帰り道、コロンボ方向は大渋滞。一部激しい渋滞の為に、道路が封鎖されており、大きく迂回を余儀なくされる。この渋滞もまたコロンボの大きな問題だ。古い車を使い続けているので、排気ガスによる環境問題も発生しそうだ。途中、日本の自動車会社のカーディーラーで、ハイブリッドカーが展示されていた。北米などを中心に市場は広がってきているが、まださすがにこの国での販売は少ないであろう。街中で走っているのを見たことはない。ただし日本で中古車が出回るようになり始めたら、間違いなくスリランカへ流出する。その時には、それなりの整備知識が必要になる。現時点でも電子制御エンジンが当然の世の中であるから特殊知識が必要なのだが(もうかなり前から)、それからさらにもう一歩進んだ知識が必要になる。そういうのもいずれは職業訓練校のアドバンスコースなどで、短期集中で行う必要が出てくるのかも知れない。ディーラーはディーラーで行うだろうが、こちらの主力はやはり地元の民間人の小さな工場だ。そういうところをサポートしなくては。

さて、マヌはコロンボで仕事を抱えており、ゴールへ向かうのは火曜にしようと言うことになった。私はコロンボには仕事はないのだが、マヌと会えて話が出来たのでまあよしとして、少しだけこれまでのまとめの時間をもらう。

食事時に、マヌが現在行っているスーダンプロジェクトの話を聞いた。最初の印象は、とにかく規模が大きいと言うこと。現地スタッフ含め総員70名。学校教育、職業訓練校、教師訓練校。マイクロビジネスアシスタンス、マイクロクレジット、衛生・上下水道関連、農業支援、食料関連等、各種のプロジェクトを行っている。当然予算の規模も大きい。ただし、現時点ではプロジェクトの目標達成に向けてかなり資金は不足しているようだ。

生活環境は厳しい。気温40度を越える暑さ。年に1回、3~4ヶ月程度続く雨季には移動するのも困難で(地面が泥になる為)、基本的に仕事は出来ないらしい。アフリカの他の国から応援に来た者でさえ長続きしないくらいのタフな条件らしい。しかも戦争の影響....。やはりアフリカは厳しい。死の大陸と呼ばれる中でもスーダンは厳しい方のようだ。もちろんサブサハラと呼ばれる地域には、シエラレオネとか、(南アフリカのところのエイズ死亡率4割近い国)とか、(タンタルの取り合いで悲惨なことになってる国)とか、厳しい国はたくさん有るが....(括弧内は国名ド忘れ....情けない)。

アムルトスリランカオフィスは人手不足だと私は感じていて、現行プロジェクトを管理しながら新プロジェクトをやるのは今の人数では難しいと思っている。しかしアフリカの話を聞いていると、アムルトインターナショナルとして資源(人員含む)をアフリカに配分するのは正しい判断かも知れない。スリランカは、ニシャンタと日本人ボランティアで守っていくぐらいの気合で進めて欲しい。真の仕事の効率化を計れば、今の人員でも十分にやっていける。日本的なハードワークになってしまうので、彼らには少々辛いかも知れないが。ビジネスとして世界トップレベルの業務処理能力を持てば、無敵のNGOになれる。やっていること、考え方は素晴らしいのだから。(と勝手なことを書いておこう)

コロンボから空港方面へ。
反対車線は永遠と渋滞。
コロンボ方面への渋滞。
どちらもまるで日本の風景。

3月6日(火)
朝、電話でニシャンタが怪我をしたとの連絡有。何でもシャワー後に滑って転んで腕を強打したらしい。病院に行ったようだ。すぐにでも行きたいところだが、マヌのビザ業務等を残していくわけにもいかず、ただ早く終わるのを願う。

全く別の話。スリランカでテレビを見ていて思うのだが、放送の考え方が国によって様々だ。海外の映画などもやっているのだが、多分キスシーンなどはカットされている。画面全体にモザイクが入る。また、乱暴な言葉使いは英語であってもカットされている。しかし、ニュースでは真実をそのまま映像として流す。最初見たときはショックを受けた。死体なども遠慮なく放送する。これは強烈な印象を与える。事件に対するショックが日本のニュースとは比べ物にならない。衝撃的だ。日本のニュースは何となく事件が有りました~くらいの他人ごとのような感じだが、こちらのニュースは事件の真実が強烈に伝わってきて、非常に考えさせられる。どちらが良いなど簡単に言えないと思うが、日本人の平和ボケみたいなのは、こういう面にも原因が有るのかなと思う。まさか見慣れてしまうなんてことはないと思うが。行方不明だった自分の息子の死体を見せられて泣き崩れる母親を、死体も含めて無修正で流すなんて日本では考えられない.....。
 

3月7日(水)
昨晩遅くにゴールへ戻った。最後のお別れもどたばただ。ニシャンタ負傷の影響で仕事の最後の詰めが出来ずに終わる。これらをニシャンタとハリンディに押し付けて終わり。

これからスタッフと最後の挨拶をする。これは挨拶をする前に書いている。送信してから挨拶するつもりだ。追加で何か書きたくなっても手遅れだ。

実は私はアムルトの仕事が見たくてここに参加したのではない。国際協力活動をやりたいだけで、英語が通じるならどこでも良かった。全く別の募集案件を探していた時にたまたまアムルトのボランティア調整員の募集を知り、何となく連絡を取り、そのまま参加が決まった。あまり深くは考えずにこの地についた。しかし今、たまたまとはいえ、ベストの選択だったと思っている。こちらでやっていることを見ていて、近所で活動している他の団体でやれていないところまでしっかりやれていたり、地元の役所と非常に良好な関係を持っていたり....。特に、ともかく現地で候補者を見てから受益者を決める!と言うところが私自身の主義でもあるし、非常に良いと思った。机の上だけの世界では何も見えてこない。ここに来る前は、おかしなことをやっているようならどんどん指摘していこうと張り切っていたが、やり方そのものについては何の文句のつけようもなかった。素晴らしいと思う。

期間を終えて考えてみると、結局私の中で最初に思っていたことの半分も出来なかった。それは送り出してくれたアムルトジャパンの皆さんには申し訳なかったと思っている。その代わり(?)私が予想していた以上に、経験できたことは多かった。NGOがどんな仕事をしているのか、自分の目で確認することが出来た。アムルトの皆さんにはとても感謝しています。私はこれでとりあえず自分の仕事に戻らなくてはならないが、これからも何らかの形でこの仕事、アムルトスリランカ&ジャパンの人達と関わっていきたいと思っている。何よりあのトレーニングの受益者の今後をぜひ見届けてみたい。

これまでの8週間、毎日の様に以前のボランティア4人の名前を聞いた。それぞれが、こちらのスタッフの心の中に今もしっかり生きているのだ。私も2ヶ月で同じような立場になれるのかと不安に思ったものだ。でもそれぞれ出所や得意分野が違って、いろんな形で良い影響を与えることが出来ていると思う。我々はいつも良い経験をさせてもらったと言うんだけど、きっと彼らも同じことを考えていて、お互いに(受益者も含めて3方で?)何か得るものが有るのだと思う。次に続く方、たとえどのような経験の持ち主だろうと、きっとまた別の形でアムルトさんの力になれることだと思います。我々は専門家ではないけど、だからこそまた違った形で関われるんだと思う。この国のことを考えると、アムルトスタッフがもうやることが無いって思えるくらいの状態に一刻も早くなるのが良いんだけど、でも我々ボランティアとアムルトスリランカの良い関係は続いていって欲しいと思う。

私がここに書いたのは、たくさんの経験の中から選んだほんの少しのことだけです。他にもいろんなことが有りました。後はここに来て体験して下さい。自分で見ないと本当のことは分かりません。ともかく一度自分の目でみること。私が言えるのはそれだけです。

ありきたりの言葉でつまんないんですが、得るものは大きいです。

あ~面白かった。皆さん本当にありがとう。

子供達の笑顔が続くことを....。 穏やかな世界が続くことを
願います。
これからの頑張りに
期待しています。
そして...必ずまた会いましょう。


ページトップ

2006 AMURT Japan All rights reserved